■完成した慰霊塔は高さ11m 総重量250トン
福島県船引町産の白御影石 210個積み上げ
■香川県庵治で表面加工する半田氏11軒の石屋を総動員した


毎日グラフ 1986年8月31日号
・250トンの石彫"合掌"にこめられた520人の"霊"への祈り
・日航機事故の慰霊塔と納骨堂をデザインした半田富久氏
碑を中心に"慰霊の園"を造ろう
あのいたましい日航機墜落事故から早くも一年が過ぎ、多くの人々にとって思い出したくない暑い夏が再び巡ってきた。昭和六十年八月十二日は、当事者の日航をはじめ、遺族、上野村、藤岡市、群馬県当局など、かかわったすべての人たちにとって、さまざまなドラマの始まりであった。東京・世田谷区太子堂で.石道研究所を主宰する群馬県出身の彫刻家・半田富久氏(50)もその一人。意外な話が飛び込んできたのは咋年の十二月のことだった。墜落現場の御巣鷹山の尾根のある上野村内に慰霊碑を中心とした"慰霊の園"を造ろうというのである。といっても当初、具体的なイメージは何もなかった。とりあえず黒沢丈夫群馬県多野郡上野村村長(72)を理事長に、財団法人"慰霊の園"が設立され、士地さがしが始まったのが一月中句のこと。
殆ど具体的な計画は未定のまま見切り発車のような形で、とにかく組織が動き出し、上野村中学校上の高台にある楢原地区が決定。早くも二月いっぱいで、一部寄付を含めて、民間からの上地一万四千平方米の買収がきまった。現在使っているのはそのうち約半分の七千平方米ぐらい。
もともと山の中で何もなかったところとはいえ、村内にはそこしか、ふさわしい土地が無かった。
総工費は約四億円。但し士地代も含めてで、上野村と日航のほか民間の寄付などが主な財源という。だが全体計画のデザインから模型づくり、実施案の決定、石屋ほか関連工事の発注、組み立てと,すべての過程を半年ぐらいでやらなければならない。模型を作ったのが一月。その三〜四案の中から、黒沢理事長が選んだのが今回の実施案で、手を合わせておがむ形。"合掌"をイメージしたもの。
厳粛な表現がふさわしい
これはモニュメント(記念碑)というよりはマウソリウム(MAUSOLEUM)というべきもの。で、遊びのデザインではなく、もっと厳粛な表現と言えばよいか。マウソリウムとはシルクロードなどにある雄大、壮麗な墓をさす。インドのタージマハールの.ようなものと思えばよい、それには、やはりシンメトリー〈左右村称の世界)こそふさわしい。それで合掌形が選ばれた。事故直後はは藤岡市も大活躍したし、それにしてもなぜ上野村に慰霊碑ができることになったのかと言えば、もともとの動機は引きとり手のない百二十一の遺骨が村のものになってしまったからだ。身元確認できないものは地方自治体の長が喪主となって葬ると民法できめられている。原因がはっきりしているのになぜか、行き倒れの人と同じ扱いになってしまったのだ。これでは何としても気の毒。それにその遺骨が役場の三十畳の会議室に安置されていて、線香の匂いが絶えず、し.よっちゅう遺族がおまいりに訪れ、そのたびに助役たちが相手をするから役場の仕事にもさしつかえる。何とか納得できる形で成仏してもらわなければならない。こうした大仕事には、指導力のある指揮官が必要だ。その点、「黒沢村長ほどふさわしい人はいない」と半田氏。
四十余年前の海軍兵学校出身で、ゼロ戦乗りの空軍少佐だっただけに、大惨事の指揮官にピッタリの人。「その体験が生きた」。
三月には石材をきめ、香川県高松に近い庵治の石屋11軒をよんで「必ず間にあわせるように」と早くも発注してしまった。それからの工程は恐るぺき急ビッチで進んだ。
そして八月三日、十二時半からの慰霊碑除幕式にまでなんとかこぎつけることができたのだ。
円錐を割った"合掌形"に
半田富久さん。石彫家。
昨年のつくば科学博の会場に設置された子供の指一本でぐらり、ゆらゆらと揺れる変わった彫刻" 揺るぎ石"
を本紙で紹介したことがあるから覚えてえている人もいるだろう。
今回の慰霊碑は、円錐を割った形の"合掌形"だが、総重量は二百五十トンにも及び、福島県船引町産の臼御影石が、左右百五個ずつ二百十個も積みあげられている。しかも重量があるだけに構造計算もたいへん。坪井善勝研究室(東大名誉教授)の中田捷夫氏に計算してもらった結果、二十五本のコンクリートの太い杭が打ち込まれ、地盤の安定をはかっている。もう一つ、デザイン的にむずかしかったのは、宗教の間題をどうするかということ、厳粛さを重規するのはもちろんだが、何しろ五百二十人という大量の犠牲着だけに宗教も宗派もさまざま。しかも外国人も多いから、観音様、マリア様、神道、無宗派等々。何かカラーをつけたら収拾がつかなくなってしまう。したが.ってむしろ現代彫刻風なものの方がふさわしい。「めいめい、好きなようにおがんでもらおう」というわけだ。それには半田氏のような彫刻家のデザインこそふさわしい。それにしても時間がたりなくて苦労した。「あと一年は時間がほしかった仕事です」と半田氏。
この慰霊の園の特徴は、慰霊塔のうしろに身元確認できない気の毒な百二十一個の遺骨を納めるため、山腹に穴をあけて土の中に十畳分ぐらいの広さの八角形の納骨堂を造ったこと。
それは、ここから約十キロ先の御巣鷹山の尾根に向いていて、ここでおまいりをすれば同時に、墜落現場もおがめる構成。その山の上には高さ1.5メートルの"昇魂之碑"が建てられた。こちらは七件の地元の石屋が奇付したものだ。
扉は永遠に閉ざされた
納骨堂の内部は石張りだが、その上には四千枚の金箔が張られた。作業を行ったのは芸大漆芸科を出た遊部文吾氏や上野村木エセンターの青木三郎氏。その苦労が実って、内部はまばゆいばかりに美しく仕上がった。
そのひな壇の上に八月三日の除幕式で、遺族の中の希望者二百人の手を経た遺骨が、無事安置され、最後に黒沢村長と遺族の代表の手で、指一本本の力で軽くおされると、回転武の扉はおごそかに閉められ、ステンレスの落とし鍵がガチャンと落ちた瞬間、永遠に封鎖された。こうして百二十一の遺骨と五百二十人の、"名牌"に示された霊は永遠の眠りについた。
こうした樽造にした理由について半田氏は「これから亡くなる入はいない。また出し入れするような性質のものでもありませんから」と。
工事はまだ進行中。来年の八月に向けて、順次、慰霊の園周辺は整備され、管理棟やおまいりにきた遺族の休憩所なども造られる予定。だが、遺族たちの「公圃にしてはいけない。車で上まで上がってもらっては困る」どいう厳しい声に象徴されるように、冬場は雪に閉ざされ、地盤が凍結する厳しい自然条件の上野村同様、遺族たちに課せられた重荷は当分いやされそうにない。そして、慰霊の園の整備が進めば進むほど、関係者の胸にはあらたなる悲しみが深まるばかりだ。
本誌 田中 薫
写真 猪俣重喜

1987年
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